2017年10月20日金曜日

平野の食レポ

こんばんは。4年の遠藤です。
秋合宿を終え、「あんなに作った計画書、もう作ることはないんだな…」としみじみ思いました。そして
最高にうれしいです!!!!!!
年間インターンやらを同時に抱えた中、睡眠時間を削って計画書を作ったことが懐かしいです。

この記事は基本的には平野が書いてくれたブログです。最初活動ブログに書いてくれていたのですが、山以外の情報が入るとややこしいので許可を得てこちらに退避させました。
台湾合宿では予備日以外は観光はしませんでした。(というか疲れで予備日も休んでた人が多かった)ですが、下界に居る時は食事をとり、また買い物のために街を歩きます。
そこで、観光ではないのですが下界での行動を紹介します。
以下、私のコメントはグレーになっています。

①玉山前
朝の便で到着し、午後は買い出しをしていました。

台北メインステーション。
MRT路線の中心駅です。日本で言うなら東京駅に当たると思います。
新幹線などの長距離路線も大体ここから乗れます。

外から見ると、こんな大きい駅。
(毎度映り込んでいるカメラマンがいらっしゃいますが、仕様です)

渡辺さんなしVer。

市内を移動し、本日の宿へ向かいます。
ほんの五分ほどで移動できるため、いつも便利でした。

日差しが強い。台湾はかなりの南国です。

着いたのは今合宿で何度もお世話になるゲストハウス「HOMEYユースホステル」。
綺麗なのもさることながら、シャワールームと脱水機がすばらしい。
アタックザックを八人分も扱うのに空間的に苦慮しながらも、HOMEYホステルのスタッフさん方は温かく迎え入れてくれました。

玉山登頂の前後、そして雪山登頂後の予備日を含めると五日ほどの夜を台北、そしてこのHOMEYホステルで過ごしましたが、施設はすべて快適に利用させてもらいました。語学力と積極性さらにがあれば、他の利用者の方とももっと関わっていけたかもしれません。

この日一番の当たり料理こと、ワンタン麺。
台湾の料理はスープと肉がとにかく美味い!
あっさり系の飲みやすいスープとジューシーな肉汁の調和が最高の逸品です。

ご飯を食べた後は、買い出しへ。


わかるでしょうか。
日本の商品です、しかも一部はそのまま。

台湾にはこうした日本の商品がほぼどこに行っても多く見かけられます。
日本語自体がブランド化し、台湾産の商品にすら日本語のコピーが見られたりも。
経営学部としてはなかなかに興味深い光景です。

自由行動。
筆者平野と渡辺さんは散歩がてら台北探検に。(あとの人は休憩)


しっかり出店しているユニクロ。
世界的にはユニクロは比較的ハイブランド、GUが廉価なブランドという戦略です。
つまり台湾におけるユニクロはちょっとした高級店!

豚、牛の包み焼きの軽食。
こうした食べ歩き的な食事も豊富なのが台湾ですが、
やはり肉料理がダントツで美味しい。
日本のものより、価格に関係なく脂がのっています。

そんなこんなで初日は終了。
ライトアップされる台北メインステーションが賑やかな夜に映えます。


②玉山入山前日
この時、玉山は入山規制がかかっていたので急きょ下界に泊まることに。
ふもとの町阿里山は観光地なので、豪華な料理しかありません…

この日の夕食は、みんなで台湾式の鍋。

回転する中華テーブルにどんどんと追加され、ご飯はおかわり自由!
お値段は張りますが、それでも日本の値段と比べるとかなり割安です。
美味しかった!

③下山後

下山後の鍋はたまらない。
結果的にこの二回以外都市部で鍋料理は食べませんでしたが(高いため)、
阿里山の二度の鍋は台湾グルメの中でもかなり満足のいく食事でした。


④宜蘭
雪山前に買い出しと洗濯を行いました。その日の夕飯です。

晩御飯では宜蘭の街に繰り出し、数が多いため二班に分かれます。
自分の班(石川、武田、平野、五十嵐、佐藤)は赤と白と緑の縞模様が看板の、泰式なんとか、日式拉麺、と書かれた店に入りました。
それぞれ別の物を注文してみようと日式拉麺、解読不能、カレー(ファミマの店内で覚えた)を注文。


出てきたのはそれぞれ量が多い駅そばのような、ラーメン要素皆無の「日式拉麺」。
まんまイタリアンパスタの「解読不能」。
予想通りの「猪カレー」と「ビーフカレー」。
そう、この店は日式&イタリアンの店であり、赤と白と緑の縞模様はイタリアの国旗だったのです!

みんなでずるずる、もぐもぐ。
実は石川さんはワカメが苦手という事実が判明しつつ、この日の行程も終了します。

おわり。

2017年10月19日木曜日

最近していること


 こんにちは。望月です。

なぜか渡辺がトレーニングに行っている間に部員ブログを1つ仕上げないといけないらしいので書いています。
最近の報告でいいですよと佐藤くんが行ってくれたのですが最近これといってしていることがありません^^;
卒論もほぼ終わってしまったので毎日寝て起きて霞を食べて生活しています笑

ですがまあ、時間があるので、最近は良く読書をするようになったと思います。
私の最近読んだ本はこれです


バッタを倒しにアフリカへ
これをご覧になった皆さんはふざけた本だと思うかもしれませんが、
これは本当に昆虫学者(広義に、研究者)の苦労と現実を書き出した本(らしい)です。

これは先日私の高校時代の後輩(今は、理学部)が大学に遊びにきてくれた時に、なぜか(本当になぜか)私のゼミの教授の部屋で私の卒論を聞くという謎の会があったのですが、その際に教授と、後輩両方からおすすめされた本です。

(理学部は大学院に行っても就職先が限られるらしく)大学院に進むか、就職か、本当に悩むんです・・・この本読むと・・・と後輩はうなだれていましたが、
私は普通に面白く読めました\(^o^)/

興味があったら読んでみて下さい\(^o^)/おわり



月の地下大空洞発見!

2017年10月18日、JAXA・NHK・朝日新聞などのメディアにて月面の地下にて大空洞が発見されたと報じられました。
国内のみならず、世界的大発見として宇宙開発史に残る一大事件と目されています。
(筆者:SF好きの平野)


JAXA記事
http://www.isas.jaxa.jp/topics/001156.html
NHK記事
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171018/k10011181421000.html
朝日新聞記事
http://www.asahi.com/articles/ASKBK7GP0KBKUBQU01N.html

今回の大空洞は2007年に打ち上げられ、2009年に観測終了した日本の月周回探査衛星「かぐや」のデータを解析した結果発見されたものです。
「かぐや」が役目を終えてから既に10年近くが経過していますが、その膨大な観測データは今なお分析の対象となっていました。


電波レーダー、月レーダサウンダーと呼ばれる「かぐや」に搭載された装置によって観測された地下空間は、直径50kmほどのチューブ状の構造をしているとされています。


何故このような細長い構造が生まれたかというと、かつて月の誕生直後、火山活動が活発だった時代、火山から流れ出したマグマによるものだとされています。
溶岩は大気あるいは真空に晒され、急激に表面温度を冷却されて固まりますが、この結果として表面だけが管のように固形化し内部では高温のマグマが流動し続けるという状態が生まれます。

やがて内部のマグマがすべて流出しきった場合、後には管のような形状の溶岩チューブが残されます。これによって生まれる溶岩チューブ=溶岩洞は、地球上でも一般的に確認される現象、地形です。

この溶岩チューブがなぜ世界的発見と呼べるかと言うと、それはこの地形的構造が非常に『月面基地』の建設に有益だからです。

基本的に重力が小さく、そのため大気の薄い月では隕石、放射線、温度差などの有害な環境変化が抑制されません。定期的に降り注ぐ隕石は月面を穴だらけにし、降り注ぐ太陽由来、系外宇宙由来の放射線は人体に害を及ぼし、一定に保たれることのない表面温度は昼は110℃、夜は-170℃という200℃もの激しい温度差をもたらします。

これを防ぐには宇宙船、宇宙服などの外的環境と隔離するための設備が必要ですが、「居住」と呼べるほどの超長期滞在を想定した基地の建設には、非常に莫大なコストがかかります。建築資材や人員の運搬が困難な月面では、大規模な土木工事は地球上の何十倍ものコストとリスクを要求されるからです。

しかしこれが、天然の地下空洞を元にして建設できるとなればどうでしょう。
50kmもの奥行きを持つ地下空洞ともなれば、形状が多少細長くとも小さな都市ほどのスケールが想定できます。50mから100mといわれる分厚い岩盤が盾となり、微隕石、放射線を防ぎ、温度差を緩和します。また、補強工事をしつつ人工的に気密率を高めることで、より居住環境を整えることが可能になるでしょう。

JAXA宇宙科学研究所の春山純一助教は「過酷な月表面の環境を人間が生き抜くのは厳しいと考えていたが、地下の空洞の存在はアポロ計画以来、行けていない月に改めて人間が進んでいける可能性を示している」と話しています。

また基地建設の他にも、より早期に行える定点観測などの無人研究地としても、地下空洞は優秀な性質を持っています。

―――

ロバート・A・ハインラインの「月は無慈悲な夜の女王」、J・P・ホーガンの「星を継ぐもの」、アーサー・C・クラークの「渇きの海」、「東方儚月抄」、「紺珠伝」、「Fate/Extra」、「CCC」、「FF4」の月の地下渓谷、「FF9」の月の涙、そして小川一水の「第六大陸」。

これらの他にもいくらでも月を舞台にした創作物は数多く存在し、さらには月に関わりのある創作物はそれこそ星の数ほど存在してきました。
月に憧れ、月に焦がれ、月面という場所を愛した人々は数知れません。

しかし東西冷戦の終結以降、あるいはアポロ計画の末期には既に、人類の宇宙開発への欲求は満たされ、かつて願われた月面基地、月面都市の未来は長らく遠のいていました。

それが今日。
長く空想の世界へと追いやられてきた『月面開発』が、現実の世界へと引き上げられるかもしれないというニュースが訪れたのです。

私もまた月と月開発の未来を願う者の一人として、喜ばずにはいられませんでした。
月万歳。月にハレルヤ。
ツキましては、年末のハヤカワSF短編賞に月開発テーマの短編を送る予定です。

これを読んだ方もこれを期に、月面開発を少しでも応援していただければ幸いです。

ああ、生きててよかった!








2017年10月17日火曜日

台湾の土木構造物を調べてみた!part3 台湾高鐵乗車編

どうもこんにちは久しぶりに投稿します渡辺です。

台湾の土木構造物を調べてみた!シリーズをなんとか続かせるためにも書いております。

ということで今回は台湾の土木構造物を調べてみた!part3 台湾新幹線乗車編をお送りします。

台湾の首都台北駅です。

台湾新幹線は台北の手前が起点となっていますが、台北駅から乗車しました。
日本でいうと東京駅のような駅なので中もとても立派です。左側の広告には堂々と三菱の広告があり驚かされます。広告にはしっかり台北101の姿も見えますね。当時世界一の高さを誇った台北101の施工会社はトンネルの熊さんで有名で黒部の太陽に出てくる関電トンネルを掘削したことでも有名な日本のゼネコンの熊谷組でございます。僕はゼネコン志望なので大変興味深いです。

台湾高鐵台北→嘉義の切符
切符だけ見ると台湾という感じがしません
プラットフォームは台湾語で月台と書くらしいですね。
標識がちゃちい
台鐵と台湾高鐵の台北駅は地下にあります。東京駅のホームがすべて地下にあるようなものなので何か違和感があります。
新幹線と一緒に記念撮影

東海道新幹線そっくり
この新幹線は終点である南部にある高雄という都市の左營駅まで行きます。
前に座っている部員は誰でしょう。
乗ってしまうと本当に東海道新幹線に乗車しているみたいです。
座席の後ろについているテーブルの表示まで一緒で感動します。
読める!読めるぞ!!
きっとムスカ大佐もそう思っています。
東海道新幹線と同じ座席配列
窓という漢字は若干違います
車内には無料Wi-Fiも整備されています。(繋がりませんでしたが)
台湾高鐵はまさかの板橋にも止まります。JR埼京線と乗り換えができるかも…
台湾には他にも府中や松山などの駅があり興味深いです。

走行音(風を切る音みたいな音)も新幹線とそっくりで感動します。
非常時に使うハンマーがあるのは東海道新幹線とは異なる点です。
いざというときはこれで窓を割って脱出するそうです。
これは欧州仕様なのだとか。

途中駅弁の販売などもやって来ました。
ドア付近もそっくりです。
ただ出発時と到着時のチャイムが「アンビシャスジャパン」でも「いい日旅立ち」でもないのが残念です。まあ当たり前ですが。
やはり新幹線にはなじみのあるあのチャイムが必要でした。
田園風景を眺めているうちに嘉義駅に到着です。
このアングルの写真はやっぱりいいですね。

それでは台湾高鐵乗車編はここまで。
おそらく次回は台湾大移動編をお伝えする予定です。

2017年10月14日土曜日

山おやつを作ろう!!~富士山編~

初めましてこんにちは、1年の五十嵐です。今回が部員ブログ初投稿となります。平野さんの後となると色々考えてしまい、迷走した結果が御覧のとおりです。どうかよろしくお願いいたします。
それでは


 世間では「山ごはん」「山おやつ」といった「山で」作る食べ物が話題になりますが、「山を」作る食べ物については話題になりません。何故でしょうか。その謎を探るために私は1012()13()2日間、登山、もとい造山をしていました。以下はその個人山造での活動記録です。

H29個人山造 富士山 活動記録】

1012()
近所のサントク――台所←→冷蔵庫――冷凍庫C1 
記念撮影!
計画書(レシピ)はクックパッド様々大明神の力をお借りしました。記念撮影後、粉ものがビニール袋に乗車したらシャカシャカ振り(ふるったことになるそうです)マーガリンと混ぜます。まとまったら冷蔵庫で一本を取ります。何事にも休憩は重要な要素です。こんな感じで生地を3班作成しました。

冷蔵庫の中で何が起きたのか
しかし冷蔵庫で様子を見るとなぜか2班だけ固いという事件が起きました。仲違いでもしたのか。アタック失敗は避けたかったので一応もう1班追加作成しました。全部で4班の大所帯です。
おやすみ~
一本を終えたら隊列を変更します。伸ばし棒氏のご協力のもと均一に伸ばします。整ったら板に乗車し冷凍庫へ。明日に備えて一泊します。
地形図を切り刻む
メンバーが就寝中、私は一人明日のアタックへ向けた準備をしました。地形図をなぞって切ってを繰り返し本番の編成の下準備をしたり、助っ人とアポを取り事前調整をしたりしていました。忙しいものです。

1013()
冷凍庫C1――台所←→オーブン――お皿――タッパーC2

 生地を取り出して昨日作成した図(地理院地図の富士山一帯を標高約500mから200mごとの等高線で切り出したもの)を生地の入ったビニールの上にのせてなぞり、溝をつけます。それに沿って切り出せば良いという訳です。
図と切り出した生地
しかしこの切り出し作業、普通のナイフでは小回りが利かず、楊枝では太すぎて切れません。中々に難しいのです。そこで、助っ人に登場していただきました。その名も「クッキー生地カッターくん」長年使っていませんでしたが、昨晩に研ぎなおしたおかげでキレが復活しています。彼とは旧知の仲、というよりも高校1年の2月14日に行ったプロジェクトXの際に、必要に迫られて私が製作したものです。針金を良い感じに曲げ曲げして先端を砥石でナイフ状に研磨すれば簡単に作れます。レッツトライ。
助っ人・クッキー生地カッターくん
プロジェクトX(2014.2.14)
こんな感じで切り出していき、続々とオーブンで焼成します。切り出しと焼き上げは同時進行ですが、室温が上がっていくので後半は生地がすぐに柔らかくなり、焼いたときに膨張しやすくなるので手際の良さが要求されます。でも無理な話です。

 そんな感じでアタック、焼けました。しかし~しかし~案の定手際が悪かったせいで、やけに膨張した輩が誕生してしまいました。とりあえず2セット分を整列させます。生地には段数の番号と北の向きをマークしたので、それに従って積み上げていきます。
個性が出すぎてしまった
写真に収めていないのですが、実のところそのまま積み上げるとまったく富士山に見えない代物になりました。もはやケルン。これは生地が膨張したので山頂部が円錐状にならず、円柱状になってしまったのが原因のようです。仕方がないので多少段数を下げたり足したりの調節を行い、辛うじて富士山っぽい形状に持っていきました。
これでも頑張ったほうです
ここでココアパウダーと粉糖が途中入山しました。ココアパウダーで玄武岩らしさを演出し、粉糖で一足先に冠雪させてみました。どうでしょう、富士山らしくなったでしょうか……。撮影する角度を下から見上げるようにしてそれっぽさを追求します。
『ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、富士山、さやうなら、お世話になりました。パチリ。』
(太宰治「富嶽百景」より)
どうです太宰治も満足してくれそうな感じ。言いすぎですね。ギリギリ富士山といったところでしょう。ちなみにまださようならではありません。我が家では食べきれないので今日の部活に持っていきます。お世話になります。この後富士山はタッパーへ分解撤収して冷蔵庫に一泊という流れになりました。

 以上が活動記録となります。いかがでしょうか、山おやつ作り。時間と手間がかかりましたが、楽しさややりがいはそれ以上にありました。反省点としてクッキーは焼くと大きくなるという点についてもう少し考える必要があったと思います。山づくりは中々に難しいですね。というよりやっぱり山に行ったほうが早いですね。山に行きましょう。山に。
とは言えこれも良い思い出になりますよ!



1年 五十嵐








2017年9月14日木曜日

短編「山と、天狗と、私」

どうも、平野です。
以前作家志望だみたいなことを口にしたら、渡辺さんに再三個人ブログに書けと命令されてしまいました。仕方がないので書いた短編を載せてみます。
物凄くお暇な時の暇潰しにどうぞ。

「山と、天狗と、私」
ーーー

 山を登る――ということを続けていると、詳しい知識なんてなくとも、天狗が山に棲んでいるということだけはよくわかる。

 なにしろ日本全国、百以上の山や丘が「天狗」と名付けられているのだ。そりゃあ、よっぽど天狗が山を好きだったか、山に登る人が天狗を好きだったかしたのだろう。
 あるいは、その両方か。

 とはいえ山岳以外の地形、海や湖にも「天狗岬」とか「天狗池」だのとつけているので、単純に昔から日本人が天狗好きだったというだけなのかもしれない。

 大抵、そういう場所には天狗にさらわれるとか天狗に池に叩き落とされるとかの悪しき伝説があるのだが、まあそこは怖いモノ見たさだろう。
 怖いモノ見たさならぬ、怖いモノ好き。

 そもそも天狗というのは天を駆ける狗、つまり隕石のことを指した中国の文献に由来するそうだ。それが日本の天孫降臨、天皇の祖先を導いたサルタヒコの伝説と混ざり、今の赤ら顔に長鼻な天狗のイメージが生まれた。

 初めは妖怪、それから山の神様として。堕落した高僧が成るとも、歳月を経た鴉などの動物が成るとも言われ。子供をさらう者もいれば、修験者の神としてあがめられる者もいる。
 善悪の定まらない、いかにも和製の神秘的な者ども。

 そんな山とも日本人とも関わりの深い神様の存在を知ってしまっては、小さな頃から父親に連れられて山に登り、恥ずかしながら八年目になる私としては、やはり天狗の一つも見ねばなるまいと思いもする。

 そういうわけで、夏休みを棒に振って天狗の伝説がある山々を片っ端から登って、踏破してみたのだけれど。


「見つからないなあ、天狗」

 嘆息する。
 私は古くは山城国、安法法師が「霞のうちにまどふ」と詠んだ、二つの河に挟まれた縦の尾根を持つ連峰の端。京都畿内に属する中ではまぁ何番目かには有名だろう、どちらかと言えば観光地として認識されることの多い、一つの山にいた。

 つまりは京都府は左京区、鞍馬山の登山道である。

 山頂の標高は五百八十四メートル。
 分類するならそりゃあもう低山だ。天狗探しを始めてからは八十リットルのアタックザックを背負って山々を巡っていた私も、流石に馬鹿らしくて軽装用のリュックサックを引っ張り出して最小限の荷物を詰め替えた。

 いくらかすれ違う人もいるけれど、当然、彼らの中に登山者然とした大荷物を抱えた人間など一人もいなかった。

 整備されて、少しばかり階段の形に整えられすぎた道を登る。登山道は植生の一つの完成形とも言える極相林だというコブノキやスギの太い幹に囲まれ、広葉樹の葉が日陰を作っていた。

 傾斜はそれなりに急だとはいえ、大して長い道のりでもない。じきに奥の院やら何やらが腰を据える、事実上の山頂付近に到着するだろう。到着してしまうだろう。

 高尾山薬王院、迦葉山弥勒寺、鞍馬寺。
 日本三大天狗とかいういつ誰が決めたのだかも判然としない格付けによって、この三つの山寺は日本で最も天狗に縁があるということになっている。

 百以上もある天狗の名がついた山岳よりも上の、一番天狗を前面に押し出した天狗山として。

 そんなものが当てになると信じ込んでまではいないものの、とはいえこの三つに期待を抱いていた気持ちは、やはりあった。

 迦葉山を除けばどちらも標高は千メートル以下だけれど、どれも山岳信仰や修験者の修行が盛んな霊山だった歴史がある。運が良ければ天狗に会えたっておかしくはないはずだ。

 そう思って、関東の高尾山、迦葉山を中心に周辺の山々に登り、この鞍馬山にまでやってきた。
 けれど一度も、天狗には会えなかった。

 溜め息を噛み殺しながら、歩きやすい山道を歩く。もう半分以上は来ただろうか、来てしまっただろうか。そう思った時、一枚の立て看板が目に入った。『木の根道』、そう書かれていた。

 パンフレットによれば、それは確か牛若丸こと源義経が天狗に師事して修行をしたという場所だそうだ。道からは完全に外れていて、マグマの貫入した砂岩に弾き出された巨木の根が、それでも何とか水を得ようとたくましく地表に張り出している。

 天狗が現れた地。そう言われれば、行かないわけにもいかない。一転して歩きづらくなった道を、木の根を乗り越えながら進んでいく。

 周囲からは人の気配が一気に消えた。いかにも神秘的で、天狗が現れそうな雰囲気。期待で胸が膨らみ、口元が緩む。気分に応じてつい歩く速度も足早になり。

 そして足の力が抜けた。

 全身を筋肉のスイッチが一度にオフにされたような脱力感が襲う。それでも体は前に進んでいた。小走りで進み始めた体にかかる慣性が、前へ前へとバランスを崩したままの私を押し出していく。地面に張り出した木の根が足を取る。

 頭から飛び出した私は空中に浮いた。その先には崖と呼ぶことができるほど傾斜の急な勾配があった。
 私はそこに頭から、勢いよく転落していった。


『おい、起きろ。おい』

 そんな声が聞こえた。頭がズキズキと痛んで、こっちはそれどころじゃないと怒鳴りつけたくなる。けれど、そもそも声が出なかった。喉がやたらと渇いていて、お腹も空いている。目を開けると、ほとんど日が落ちて薄暗い空が目に入った。

 何でこんなところで寝ていて、こんなに頭が痛いんだろう――そうだ、落ちたんだ。崖から。

 直前の記憶を思い出して、慌てて起き上がろうとする。しかし頭を起こした瞬間に鋭い痛みが走って、うめいた。しかも体の方は、そもそもほとんど動きすらしなかった。

 気怠い疲労が鉛のように重くのしかかっている。そういえばここ十数日はずっと歩きづめで、休むのは寝る時と電車での移動中ぐらいのものだった。忘れていた疲れが、復讐するかのように強烈に全身を苛んでいた。

『急に動くな。頭を樹で打ってる。血は止まってるが、良くはないぞ』

 声が言った。酷くぼんやりとしていて、掴み所のない声だった。何故か姿は見えない。

 いや、声は頭の上から聞こえていた。首を上げて、頭が痛まない程度に視線を動かす。傾斜の山側、地面に転がる私の頭の上に、彼は座っていた。

 天狗が、座っていた。

 叫ぼうとして、驚こうとした。けれどどちらも頭の痛みに邪魔される。小さい頃に転んで頭を打ったことはあるが、脳震盪の痛みはこんなに長く続くものだっただろうか。

 それとも、単に木肌に打ちつけた時の傷が痛んでいるだけだろうか。どちらにせよ、早く病院に行った方がいいのは自分でもわかった。

『だから、急に動くな。死にたいのか』

 天狗は、少し怒ったように語調を荒げた。強い言葉も使った。

 死にたいのか、だって。そんな、そんなわけがない。死ぬだなんて。

「山で、死ぬなんて、嫌……」

 驚いたことに、声が出た。カラカラに乾いた喉が、それでも音を絞り出してくれた。山で死ぬなんてまっぴらごめんだ。

 そう強く思った私の意志に応えてくれたのだろう。さすがは私の喉、と長年連れ添った体の部位を称賛してやる。

『ほう、そうか』

 天狗の方も驚いたようで、顎を少し引いていた。
 死にたがりだなんて思われたことに反論ができて、私は少しだけ得意になった。

『ならばいい。……食う物と飲む物はあるのか。飢えているだろう』

 天狗が実用的な質問に移る。

 実際、物凄く飢えていたので、持ち物の存在を思い出させてくれた天狗に思わず感謝したくなった。いくら低山とはいえ登山は登山だ。軽食と飲料水は、もちろん持ち込んできている。

「背中の……リュックに……」
『そうか。出すぞ』

 幸いなことに、登山用のサブザックは転落の拍子にちぎれ飛んだりはしていなかったらしい。天狗は私の背中に背負われたリュックサックをごそごそとまさぐって、ペットボトルのお茶と行動食のカロリーメイトを取り出した。

 私は渡されたそれらを最初はちびちびと、やがて一気にごくごく、むしゃむしゃと貪る。

 ペットボトルの中身は半分ほどしか残っていなかったし、たった一箱の携行食は非常食としては心もとないにも程がある。私は自らの不用意を呪おうとして……しなかった。可能な限り食費を抑えて、あらゆるコストを抑えて、一つでも多くの山に登ろうとした。

 天狗に会うためなら、どんなことでもしようと思った。その決意は、今だって変わってはいないのだ。死にたがりなんかじゃあないし、山で死ぬのもまっぴら御免だ。けれど天狗に会うためなら、死の淵まで行くことになっても構わないとは、思っていた。

 満腹には程遠く、頭はズキズキと痛んで視界がぼやけ、眩暈がするのは変わらない。全身に纏わりつく重たい疲労もそのままだ。けれどそれでも一応、体を起こせるぐらいの体力は戻ってきた。

『立てるか』
「うん、はい。歩けます、たぶん」

 天狗の手を借りて、ふらふらと私は立ち上がった。傍目から見ればひどく危なっかしい姿に見えたことだろう。

 こんなめちゃくちゃな体調で山にいることがどれだけ危険か、父親に散々教え込まれた私にもよくわかる。けれど、まともな防寒着も食料もない中で夜を迎える方がさらに危険なのだ。

『こっちだ、ついてこい』

 天狗はそう言って、夕焼けの残滓がわずかに赤く照らす木々の間を歩き出した。斜面に対して横向きに進むトラバース。

 いいか、傾斜が急になるなら真っ向から進む必要はない。回りこんで、一番歩きやすい道を選ぶのも一つの技術だ。そう言って、父親は私に道の無い山を歩く方法を教えてくれた。

 登山者が遭難した場合、無闇に下ろうとするよりも上に登るべきだというのが通説である。山の形状は必然的に末広がりで、下に行くほどその面積が広くなる。

 迷う余地が増えるばかりの谷側に降りるよりも、稜線にさえ出てしまえば前と後ろの二択になり、登山道が整備されていることも多い山側に登る方が確実に遭難状態から脱せられる、ということだ。

 しかし、天狗は横へと歩きながら、徐々に下る方へ足を進めていた。ほんのわずかに、恐怖が芽生える。天狗と言えば古今東西、山を訪れた者を化かし、驚かし、時には神隠しとして攫ってしまうものだという。

 この天狗もこのまま、私をどことも知れない天狗の棲み家へ連れ去ってしまうつもりなのだろうか。

「下るん、ですか?」
『この山は三方を河と街に囲まれている。北側に進む登山者も少ないから、尾根にわかりやすい目印もあまりない。日が沈んでから目印を探して彷徨うよりは、とにかく下へ降りた方が早い。たとえ北側へ向かってしまったとしても、麓にさえ辿り着けば遠回りでも道に出る。どうだ』

 最後の一言が了承を求めているのだとわかって、私は逡巡した末に頷いた。

 天狗が言っていることは恐らく正しい。地形と立地から考えれば、今は下りる方が正解だ。ただし、天狗ならば妖しげな術を使っていくらでも人攫いぐらいできてしまうかもしれない。

 けれどそもそも、そんな天狗を探しに来たのは自分なのだ。折角、会いたいがために十も二十も山に登ってきた相手に会えたというのに、ここで逃げ出したら何のためにやってきたのかわからない。私は、天狗を信じることにした。

 横向きに歩き、下る。やがて傾斜は緩やかになり、まっすぐに下へ向かって歩けるようになった。トラバースをやめ、直登のルートを逆になぞる。そうして日がほとんど沈みかけた頃、天狗が唐突に口を開いた。

『何故、この山へ来た』

 しばらくは何を言われているのかわからなかった。観光、だとか参拝だとか、そういう適当な答えを返すべきなのかと考えて、そうではないことに気づく。

 天狗はわかっていた。私が、何か目的を持って、こんな無茶な登山をしていることに。繰り返していることに。

「天狗に、会いたかったから」

 結局、何も隠さずに、本心を口にした。そういえば人にそれを言うのは初めてだったかもしれない。ほとんど家出同然に家を飛び出してきて、家には書き置きを残してきた。

 「天狗に会いにいってきます」。けれど直接は、お母さんにだって言っていない。友達にも、もちろん。

『何故、天狗に会いたいと思った』
「それは」

 それは、それこそ誰にも言ってはいないことだった。誰にも言うつもりのないことだった。どう聞いたってただの誇大妄想でしかなくて、でも自分の中ではそうに違いないと信じていた。誰かに否定されるのが怖かった。

 いっそ天狗の存在を心から信じていて、それに会いたいと思っている夢見がちな女の子だと思われる方がよほど良かった。

 それでも、天狗に隠しておくわけにはいかない。
 この一言を訊ねるために、私は天狗に会いに来た。

「――お父さんは、きっと天狗になったから」

 お父さん。
 私の父親。山が大好きだった人。山が大好きで、天狗が大好きで、私にその両方を好きにさせてくれた人。私が大好きだった人。今は何もかもが、過去形で扱われてしまう人。

 天狗は笑わなかった。否定もしなかった。ただ、こう訊ねた。

『何故、父が天狗になったと思う』

 何度も自問自答したことだ。答えだって、決まりきっていた。

「お父さんは山が大好きで、山に棲むっていう天狗が大好きで。生まれ変わったら天狗になりたいっていうのが口癖だった。だけど山が好きだからこそ、山でだけは死なないっていつも言ってた。

 私にも、山でなんか死ぬんじゃないって口を酸っぱくして言ったの。山で死ぬのだけは嫌だ、山に迷惑をかけて死ぬのなんて御免だって」

 山では死にたくない。これだけ愛した山におれは感謝しているのに、それを汚して死ぬのなんか御免だ。山から帰って、街で暮らして、そこで穏やかに最後を迎えたい。

 お父さんはそう言っていた。何度も、何度も。
 それなのに。

「そう、それなのに――お父さんは、山から帰ってこなかった」

 五月。まだ大部分を雪で覆われた剱岳に、お父さんは昔の登山仲間と登りに行った。ピッケル、アイゼン、スノーシュー。冬山の装備をきっちり整えて、経験豊富なメンバーと、十分な準備をした上で登りに行った。

 私は学校の休日と予定が噛み合わなかったし、お父さんは昔の登山仲間と旧交を温めるつもりだった。少し仲間外れにされたような気分を味わいながら、私はいつも通りにお父さんを見送った。

 二日後のニュースに、どうしてかよく知っている名前が流れていた。よく知っている顔が載っていた。帰ってきたのは棺に入れられた冷たいなにかと、泣きながら床に伏して私とお母さんに謝るお父さんの登山仲間たちだった。

 お父さんは、帰ってはこなかった。

 お母さんは棺にすがって、声を上げて泣いていた。けれど私にはわからなかった。だって、あんなに言っていたのに。山でだけは死なない、絶対に街に帰ってくるって。お父さんは山についてなら、一度も嘘なんて吐かなかったのに。

 私は考えて、考えて、考えて。
 ようやくその答えを見つけた。 

 お父さんは天狗が好きだった。お父さんは山が好きだった。お父さんは天狗になりたいと言っていた。お父さんは、生まれ変わったら天狗になると、そう言っていた。

 だから、お父さんは。

「きっと、天狗になったんだ」


 見た事のない場所へ連れて行ってくれて、見た事のない景色を見せてくれる。想像もできないような話を、心の底から楽しそうに話してくれる。そんなお父さんが私は好きだった。そんなお父さんに、私はもう一度会いたいと思った。

「私は、お父さんに会いたい。天狗になったお父さんに会いたい。あなたはお父さんがどこにいるか、知っていますか」

 もうとっくに、日は沈み切っていた。木々と、地面と、空の闇が混じり合って境界線が溶けていく。頭はズキズキと痛んで、けれどそれ以上に胸の奥が痛くて苦しかった。この痛みのためなら、何度だって山に登って、天狗を探して歩こうと思った。

 山で死ぬのだけは駄目だけれど、それでも死ぬまでだって登ろうと思った。星なんて一つも見えない夜空。たった一つでいい、一度でもいい。もう一度だけでいいから、会いたくて仕方がなかった。

 天狗に……お父さんに。 

 目の前に立つ天狗は何も答えなかった。夜の闇に溶けたまま、そこにじっと佇んでいた。けれどやがて、一言だけ、質問をした。

『何故、父は山を愛していたのだと思う』

「え……」

『新たな景色を、見せてくれるからだ』

 初めて、天狗は自らの問いに自分で答えた。それは私が山が好きな理由の一つでもあって。けれどもしかしたら、いつかどこかで誰かに教わった喜びだったかもしれない。いつも一緒にいた、誰かに。

『山は常に表情を変える。天候によって、季節によって、あるいは踏み入る人によってさえ。同じ山でも、登るたびに新たな景色が生まれる。それを、父は何よりも愛していた。愛したが故に、登り続けていた』

 そう、お父さんはいつだって山の景色を愛していた。

 晴れの日には青空と緑が綺麗だと言い、曇りの日には雲海が増えて見事だと言い、霧の日には何も見えないのが神秘的で素敵だと言い、雨の日でさえ雨粒に煙る風景は素晴らしいと言った。くるくると変わる景色はどれも新鮮で、見ているだけで楽しいのだと。

『けれど、やがてそれだけではなくなった』

 それだけではなくなった?
 どういうことだろう。お父さんは、山に新しい喜びを見つけ出したのだろうか。

 天狗は続ける。夜の闇の中で。

『ある時現れたそれは、常に表情を変える。話すたびに嬉しそうに笑い、寂しいと泣く。小さなことで怒り、けれど頭を撫でるだけで機嫌を直すこともある。何をするのか予想もつかず、どれを見ていても新鮮だった』

 私は、何も見えない夜の闇で目を見開いた。
 天狗が言おうとしているもの、それはつまり。

『登羽。お前が、父の新たな景色になった』

 風が吹いた。突風に吹き散らされて、遥か遠い雲までもが隙間を作る。ほんのわずかに、月と星が夜の闇に光を差した。たった一筋の明かりが妙に眩しくて、私は顔を上げる。

『それからの山に登る目的は、お前に自らが愛した景色を見せてやりたかったからだ。

山では死ねないと思った本当の理由は、お前を悲しませたくはないと思ったからだ。何よりも愛するようになった相手に、自分がかつて愛したものを好きになって欲しいと思ったからだ』

 天狗の顔は見えなかった。月明かりが照らしてくれるのは私だけで、天狗のことは何一つとして明かしてくれない。だから天狗の言葉だけが、私の胸に染み入ってくる。

 私に山を大好きにさせてくれた、私の大好きなお父さん。家のリビングで、山小屋で、学校の送り迎えの帰り道で、山に行った日の車の中で。色んな話をしてくれて、それに私が喜ぶのを見ては、いつも嬉しそうに笑っていたお父さん。

 お父さんが愛していたもの。
 お父さんが愛していた、私。

『さぞや無念だったことだろう。さぞや悔しかったことだろう。何度となく、お前と母に胸の内で詫びたことだろう。生きていたいと、心の底から願っただろう。――それでも、父はもういない。お前がいくら探したとしても、もう会うことは、できないのだ』

 天狗の言葉が、胸の奥の痛みに触れた。けれどそれをこれまでのように拒むことはできなくて、私は地面に座り込んだ。

 山に登っても、どこを探しても、お父さんにもう会うことはできない。お父さんは、もうこの世のどこにもいないから。険しい飛騨の雪の中で、命を失ってしまったから。

 いつの間にか、頬が濡れていた。
 こぼれ出した雫はとめどなく続き、やがて私は声を上げて、体を震わせた。

 私は泣いた。地面に座り込んで誰もいない山の夜に、涙声でひたすらに吠えた。

 お父さんが帰ってきたあの日、棺桶にすがって泣いたお母さんのように。泣きじゃくってわめいて、悲しんで、そうしてようやく。

 やっと、今更になって。
 お父さんは死んでしまったのだと、認めることができた。

 山の夜の闇と、月明かりの中で。


 次の日。私は病院の診察室で、清潔な白衣を着たお医者さんと向き合っていた。

「西条登羽さんの症状ですが。頭の打撲と肩と足の打ち身の他は、外傷は特にありませんでした。MRIでも脳に異常は見つかりませんでしたし、軽度の栄養失調と睡眠不足、それに過労が重なったことが問題だったようで。
 一晩ゆっくり寝て点滴をしましたので、だいぶよくなったはずです。とはいえ、おうちに帰ったらゆっくり休ませてあげてください。まだ高校も夏休みでしょうから」

「ありがとうございます。本当にありがとうございました、先生……!」

 やたらとこっちを子供扱いしてくる医者に対して、隣に座るお母さんは涙ぐみながら何度も頭を下げていた。恥ずかしくもなるけれど、私に恥ずかしがる資格なんてものは当然ない。

 それを言うなら、私はそれよりよっぽど恥ずかしいことをやらかしたのだ。家出の末に貯金を使い果たして山に登り続け、あわや京都の山中で死にかける、なんていう馬鹿なことを。

 今朝目を覚ました時、私はいつの間にか病院のベッドの上にいた。財布の中の学生証から身元がわかり、警察に捜索願まで出していたお母さんは夜の間にタクシーを乗り継いでかけつけてきていた。

 どうやら私は鞍馬山の麓、鞍馬駅前の外れで倒れていたらしい。どうやってそこまで降りてきたのかは記憶が曖昧だった。通りがかった人の通報で救急車が呼ばれ、病院でお母さんが呼ばれ、私は眠っている間に一晩を入院して過ごした。

 徹夜で病室のベッドの隣に座っていたらしいお母さんは、目を覚ました私を泣きながら抱きしめた。無事でよかった、体に痛いところはない、ごめんね。そう私を気遣うことばかり言って、もうこんなことはしないで、と怒られたのは随分と後になってからだった。

 深い隈に泣き腫らしたのが加わってひどい顔になったお母さんを見て、いけないことをしたな、と素直に思った。もうきっと、私は天狗を探さないだろう。

 近畿鉄道の特急に揺られながら、私はお母さんに初めての頼みを口にした。

「お母さん。私三重に帰ったら、お父さんのお墓参りに行きたい」

 お母さんは一度驚いたように呼吸を止めて、それから「そうね。一緒にね」と微笑んだ。

 大人っていうのは、やっぱり凄い。
 お父さんも、お母さんも。


 私が天狗に会ったことを話すと、医者は訳知り顔で、

「それは『サードマン現象』かもしれないね」

 と言った。
 サードマン現象というのは遭難者や被災者が極限状況の中で、いるはずのない人間を見ることらしい。そのいるはずのない誰かが道案内などをしてくれたお陰で命が助かったという人が、世の中には少なからずいるそうだ。

 科学的に解明はされていない現象だけれども、有力な仮説の一つとしては極限状況下で脳が生存のために活性化し、奥深くに眠っていた知識や思考力を幻のガイドという形で発揮するというものがあるという。

「過労や栄養失調によって危機を感じた登羽さんの脳が、天狗の幻を作り出して登羽さんを導いた、のかもしれない」

 そんな風に、年配の医者は言っていた。

 実際、あんな道を外れた場所で人に会うとは思えない。時代錯誤な修験者でもいたにしても、私は天狗の服装や外見を何一つ覚えていなかった。

 ただ天狗だ、という感覚だけが強く残っている。
 声や言葉も、今にしてみればどれも曖昧にしか思い出せなかった。

 私が出会って命を助けられたのは、天狗だったのだろうか? 脳の作った錯覚だったのだろうか?

 それとも……。

 
 三重に戻った私はお父さんのお墓に線香を立て、伊勢神宮にお参りをした。お父さんが安心して眠れますように、と。

 しばらくはお父さんの遺した貯金があるし、大学までは行かせてあげられるから気にしないで、とお母さんは言った。

 けれどお母さんは働き始めるのだろうし、私もバイトくらいは始めるつもりだった。これから忙しくなるだろうし、大変なことも増えるだろう。


 それでもきっと、私はまた山に登る。

 お父さんが愛した場所に。
 私が愛するようになった場所に。
 
 街で暮らして、山に登って。

 いつか自分の子供に、私はこんな景色が好きなんだと嬉しそうに教えられる、その日まで。

2017年9月5日火曜日

台湾最後の夜

ニイハオ。台湾合宿PLの遠藤です。PLも何も、台湾班は4年が私一人なだけ(´・ω・`)

台湾合宿最後の夜となりました。眠いのに眠れないのでブログを書いてみようと思います。
無事に全ての行程を終え、明日帰路につきます。


以前のブログで書いた雪山のパーミッションは、何度もメールで問い合わせた結局全ての行程は認められなかったものの大部分は認められ、雪山〜雪山北峰の縦走をすることができました。
3700m超の高山での縦走は日本では経験することができないので、良い経験になったと思います。コースの詳細は活動報告ブログにて。

雪山主峰〜北峰縦走中
雪山主峰を過ぎると日本人はおろか外国人すら居ませんでした。ルートの難易度は上がり、道の整備も主峰と比べるとされていません。記録がなかなか見つからないのも納得かも…
ここまで来た日本人はかなり少ないのでは!?


合宿を思い返すと部員や現地の方の協力と、あとは運のおかげでなんとか無事行程を終わらせることができたんだなぁという感想が出てきます。
特に玉山は強く感じます。というのも、玉山は台風接近により前日の夜遅くまで入山規制がかかっていました。バスも運休されたため、宿から交通機関から全て考え直さなくてはなりませんでした。
相談に乗ってくれた部員や宿とビジターセンターの方、急なお願いに対応してくれたマイクロバスの運転手の方など、多くの人の支えがあって行程を進めることが出来ました。
玉山山頂 天気はあいにく

不安が多い海外合宿で、準備が行き詰まったときは「やらない方がよかったのでは?」と思いましたが、今はやって良かったなと思っています。少なくとも私は!

明日は最終日。気をつけて帰国したいと思います。